「雨夜譚 維新以後における経済界の発展」要約
今回は渋沢栄一の自伝である「雨夜譚」に収録されている「維新以後における経済界の発展」を読んでいきます〜
渋沢といえば明治時代に活躍した実業家として有名ですよね!まさに今回の話は、その実業家時代の話です
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要約
第一節 諸言
実業家となる前のことが大雑把に語られています
百姓の身分に生まれる。憂国の士として家を飛び出し、一橋家で藩政に携わる。慶喜公が将軍になったので、幕府に召し抱えられることに。
幕府の人間としてフランス(初めての海外渡航)に世界大博覧会を見に行く。渡航前は西洋人は功利のみを追求し、仁義を行わないので、精神的なことを西洋に学ぼうとは思っていなかった
渡欧中に幕府が倒れる。主である慶喜が朝廷の敵となりもう政治を行えないので、自分が帰国後に身を立てる手段も必要だとして、金融や運輸、商工業を欧州で学んで帰ろうと決意
欧州経済界を観察すると日本と異なる点があることに気づいた。
一つ目は紙幣の流通。日本のもののように時代によって価値が代わるのではなく、いつでも同じだけの正金に引き換え可能。さらにそれを扱うバンクと、国家が融通する公債証書というものがある。
→国家の富強というのは、物質上の事物が発展しなければならないと分かる
二つ目は商工業者の地位と官吏もしくは軍人との関係。当時の日本は身分制で、どんなに無能でも地位が高ければ威張り、優秀でも農民なら奴隷視されていた。平等に意見し合う環境でないと事業は発展しないと感じる
帰国後、静岡で半官半民の、銀行と商会を混同した一商会をつくる
明治二年冬、大蔵省から引き抜かれる。今はまだ商工業をやる時期ではなく、まずは政治の制度を作らねばならぬという思いから引き受ける
明治二年〜六年の間に、日本の経済界の基盤を大蔵省として整備していく。国立銀行条例、貨幣制度、会社組織など
実業界の基礎は伊藤博文がアメリカから輸入したものが基礎
第二節 貨幣制度の整理
まず、訓示的な講釈本である「貨幣条例」という本を出した
明治四年に貨幣制度が発布されたが、金貨はなく銀を通過とした名ばかり制度であった
アジアは銀本位だが、欧米は金本位なので、日本が銀本位だと取引に不便で商売が円滑にいかないが、金本位にしようにも金の実物がない
→明治28年に支那から補償金がとれたので松方正義が金本位にした(これを渋沢は英断と褒めている)
第三節 公債の沿革
廃藩置県での公債発行が日本における公債のはじめ
伊藤博文がアメリカで見た公債証書を発行しようと言い出した、実施は井上馨
正金を納入して証書を交付する方法は明治11年に起業公債によって実験した
第四節 銀行の発達
「官民階級が当時のような亜梨沙まではとうてい進歩はできぬ、民間の実力が多いに増進し知識が発展して、ただ政府の命令のみに依頼するという風習がなくならなければならぬ」→業者の知識をすすめ人格を上げると同時に資金力もあげる銀行制度を採用すべき
アメリカ式の伊藤博文案(中央銀行を最初に作るのではなく、まずは広く一般に銀行を作るのが先)を行うことに
明治6年、井上が官を辞するときに一緒に辞職、ちょうどそのときに三井組と小野組が銀行を作るという話になって渋沢が誘われ、国立第一銀行の人になる
その国立第一銀行だが、三井組の人間と小野組の人間の間でうまくいかず、渋沢が総監として仲裁役になった
銀行が出来たから理想通りにことが進んだということはなく、たとえば市場で少し金価が高くなると銀行の紙幣はすぐ兌換され、格好の金引出し口になった
国立銀行条例改正によって、華族の公債証書による金調達を促すだけでなく、合本会社の設立などにも良い影響を与える
日本における国立銀行の発達は日清日露戦争などを通して経済界が大きくなると共に大きくなった
内地関連は日本銀行、海外為替は横浜正金銀行、というように徐々に役割分担されていった
第五節 会社企業の発達
最初の株式会社(合本会社)として王子製紙会社が創立。これは三井組、小野組、島田組が起原になる
会社創業の困難として、誰も最初はやりたがらなかったことが挙げられる
なので、まずは大蔵省に通商司をおき政府の命令で会社のようなものを作った。実態は指図する人もされる人も会社の実態を知らずに、ただ政府の御用ということで従事しているだけだった→一年ほどで破綻(出資した人も損害を被った)
その反省から、渋沢が会社を作るときはみんなが会社制度に明るい必要があると考えた